アロセントリック vs エゴセントリック
/autism-spectrum-disorder/ASDはエゴセントリックなので、アロセントリックとは合わない
現時点のsta.iconの理解
健常者はアロセントリック的
外界のあり方を認識した上で、それベースで立ち回る
相対的
ASDはエゴセントリック的になりがち
自分ベースで立ち回る
絶対的
既存の研究では「空間認識」面でのみ語られがちだが、認知面でも当てはまる
単に自分目線や他者目線といった話ではない
エゴでも自分目線や他者目線はできるし、アロでも自分目線や他者目線はできる
そうではなく価値判断の礎が違う。アロは「外界のあり方」一択で、エゴはそうじゃない(しおそらく自分)
そしてこの違いは器官(比喩)の違い。まあ社会的動物なので外界を扱う器官があって、普通は持ってるからそうなる。ASDはそこが(そこも?)障害になってて扱えない
エゴとアロは相容れない
アロは「外界のあり方」が第一なので、
「外界のあり方」を踏まえないものはそもそも認識できない
「外界のあり方」の改変を許容しない
エゴは自分ありきなので
「外界のあり方」を気にするという発想がない
パターンとして学習して振る舞うことはできるが、常にできるとは限らないし、浅い
(たぶん高IQだと現実的に問題ないラインまでキャッチアップする、を持続的にできると思う)
「外界のあり方」を平気で軽視する
丸々無視したり、ダシにしたりする
軽視するというか優先順位が違う
アロ: 外界のあり方 >> 自分の考え。いわば外界教
エゴ: 自分の考え >= 外界の考え方。いわば無宗教。人によっては自分教かもしれないが、少なくとも外界教ではない
アロにとって外界のあり方は教典のようなものであり、踏まえないことはありえないこと
論外であり一蹴の対象となる
知的生産の才能を一つ挙げるとしたら、エゴセントリック性だろう(仮説)
似た議論: 知的生産の適性
だからこそ俺は凄いし、俺の凄さを理解できる奴がいない(仮説)
ブラックドメイン